SIUギリシア紀行
深堀能立

 2019年のSIU開催地はアテネ。もう一度旧友のStathisにアテネで会えるだろうか。
私は、2006年に招請講演で一度アテネを訪れたことがある。彼とはそのとき以来だ。そうだ、演題を出してみよう。幸運にも私の演題は採択され、私は、再びギリシアを訪れることになった。


 Stathis Nikolaropoulosは、私が米国留学時代(1990-1992年)のandromedin研究グループの同僚理博で、細胞培養の「さ」の字も知らない私に、細胞培養技術を一から教えてくれたギリシア人である。非常に優しく、陽気で呑気な性格の為、みんなから人気があった。彼は、ギリシアへ帰国後Embryologystとして顕微授精関連の臨床と基礎研究および教育を行なっていた。夫人は考古学者であり、前回のギリシア訪問の際にはアクロポリスの丘に一緒に登り、パルテノン神殿やエレクティオン神殿などについて解説してくれた。



 Stathisは筆無精であり、6月に出したE-mailの返事が帰ってきたのは9月だった。その返事には彼の携帯の電話番号が書いてあり、早速ギリシアに国際電話をかけると、懐かしい声が 機関銃の如く畳み掛けてきた。「本当にしばらくだね、調子どうだ」、「自分は体調を壊して、しばらく治療してたんだ」、「アテネにはいつ到着するのか」、「どこに泊まるのか」、「空いてる時間はあるのか」、「新しいアクロポリス博物館ができたので、案内したいんだ」、「自分は環境汚染物質の生殖細胞に対する影響を研究しているので、その成果を見せたい」などと、人懐っこい声はこちらの口を挟む間も無く喋りまくった。結局、旅程などは間違いがないように、メールで送ることになり、10/20に博物館前に集合ということになった。


 私にとって、今回のギリシアは2度目ということもあり、今回は家内を連れて行くことにした。彼女の叔母はギリシアを何度も訪れたことがあり、家内も断崖上の修道院メテオラに興味を持っていた。

 国際学会斡旋旅行会社にホテルと飛行機を申し込むと、すぐに返事が返ってきた。今回は、エティハド航空利用で経由地はアブダビだ。ホテルも学会場の斜め前で、値段も安かった。安かろう、悪かろう、なんてことはないよな。ちょっとネットで確認しておかないと。Googleでstreet viewを覗くと、な、なんと、正面と両隣がstrip theater、裏には公娼店が点在する場所であった。学会場は道路の反対側にあったので、2軒の劇場の前を通らないと学会に行けない。ダンサーが眼前で踊る姿を妄想すると、心が躍った。しかし、である。今回は、家内同伴なのだ。こんな時に、間が悪い。劇場は夜10時からなので、家内が眠り込んだら出かけられるか…………………。

 SIUは、ご存じの方も多いと思うが、最先端の重要情報が多数発表される場ではなく、グローバルなコンセンサスを確認するような雰囲気が多い。ポスター発表も、まずまずのレベルで採択され、実際の発表も「口演付き」から「張るだけでOK」まで様々である。したがって、多くの参加者が「オプショナルツアー」や現地観光を楽しみにしている。今回私は、何をしようか。学会主催のオプショナルツアーを見比べて、「エーゲ海クルーズ」を選択した。前回のギリシア訪問ではできなかった、私にとっての課題だった。家内は、メテオラ訪問を画策していた。断崖上の修道院は、確かにランキングトップの観光地だ。学会同伴参加を決めてから、瞬時に日本の観光サイトに申し込んでいたようだった。


 学会のポスター発表の電子媒体を送信し、Stathisへのお土産を買い込んで、留守中の不測の事態への対応を隣近所にお願いして、高崎駅からバスで成田に向かう。バスは関越道鶴ヶ島で大きく旋回し、圏央道に入った。ホー、最近は圏央道を通って成田に行くのか。圏央道を、東へ東へ。高架の上から見る関東平野は、水田・畑地ばかりでなく雑木林が意外に多く、かの平将門が騎馬で林から抜け出し草原を駆け抜けて、地平線の彼方へ去っていく姿が、大河ドラマ「風と雲と虹と」の場面そのままに思い出された。

 バスは北ウイングに到着した。家内が注文していたギリシア語通訳器を受け取り、手荷物預けの列に並んだ。エティハド航空の我々のところだけ、長い列ができていた。10月の平日だというのに。色々な人種、色々な年齢層、ヨーロッパ・地中海の色々な方面への旅行者が集まっていた。特に、若い女性グループが多いようだ。アブダビ経由は、安いので人気なのだろう。荷物を預けた後、日本名残の麺を食べることにした。ラーメン好きの私が選択したのは、何の気の迷いか、うどんだった。ラーメンは昨日食べた。うどんは、しばらく食べてない。もう、一生うどんが食べられない可能性があると思うと、無性にうどんが食べたくなったのだ。昔行列を作った出国審査は一瞬のうちに通過して出発ゲートにつくと、人影は、まだまばらだった。そのうち徐々に人が集まってきたが、明らかにSIU参加者と思われる人はあまりいなかった。ギリシアってあまり人気無いのかな。

 機内に乗り込んだ。前に乗ったエミュレーツ航空の方がちょっとレベルが高いかもと思ったが、まずまずなのかもしれない。エコノミーだが、乗り心地は悪くはない。サービスも機内食もまずまずだったが、食事はチキンが多かったかもしれない。驚いたのはウイスキーの量で、ロックを注文したら、グラスに溢れるばかりに持ってきてくれた。何かの手違いかもしれないが、ラッキー。お決まりの、飲酒と映画鑑賞と睡眠と食事を何度か繰り返し、13時間の旅の後、アブダビに着いた時には、かなり「出来上がって」いたかもしれない。しかし、足取りはまだしっかりしていた。

 ここからが大変だった。出発まであと、9時間。どうしようか。とにかく寒いのだ。外は30度以上。時刻は午前1時。昼間なら、モスクの観光などができるのだろうが。空港ビル内の店を覗き歩いて時間を潰すが、潰しきれない。睡眠も必要だ。背が倒れた椅子も幾つかあったが、ほとんど占領されていた。そうだ、2階の方が暖かいかもしれない。2階出発ロビーは、やや高めの気温だったが、まだ寒く閑散としていた。数人の人がそうしていたように、我々も2つの椅子を向かい合わせて横になった。

 ふと気がつくと、出発1時間前。そろそろ戻らないと。アテネへの出発ゲートへ戻ったが、人影はまばらだった。定刻になってロビーが一杯になっても、ギリシア人と見受けられる人々が多く、学会関係と思われるアジア人は数人だった。日本人かと思うと韓国人カップルで、韓国語のガイドブックを広げていた。やはりギリシアって人気無いのか。連絡バスに乗り、屋根なしタラップを上がって比較的小さな飛行機に乗ると、5時間半程でアテネに着いた。 アテネ国際空港は、アテネ市内から一山越えた東側にある。市内へは電車・バス・タクシーなどで行くが、鉄道・道路みな山を迂回して連絡している。市内までのタクシー料金は一応一律に決まっているのだが、時にぼられることもあるらしい。電車やバスではスリやひったくりが多く、停車場からホテルまで荷物を持って歩かなければならない。乗り換えも必要。少し割高感があったが、タクシーに乗ることにした。初めに料金の交渉をしたので、幸運にも、ぼられずに例のホテルに到着した。

 我々の、アテナエウム・グランドホテルは小綺麗な佇まいではあったが、エレベーターの入り口ドアが手動で、一見普通の客室か何か見間違えるようなドアノブがついていた。アテネのホテルで一番驚いたのは、トイレットペーパーを水に流せない事だ。トイレの横に壺が置いてあり、この中に廃棄するのである。ギリシアでは、下水の配管が細いので、紙が詰まってしまう。ギリシアでは、これが常識らしい。そういえば、空港のトイレも幾つか詰まっていたな。

 さてと、荷ほどきを終えたらregistration に行ってこないと。学会場は、すぐ斜め前なのだが、その前に偵察。向こう一軒両隣。そこはまだ、入り口に鎖がかかっており、夕方だというのにネオンもつかず、閑散としていた。そうか、どこ も22時からか。とりあえず、学会のregistration。今回は、どんなバッグが貰えるかな。アテナエウム・インターコンチネンタルホテルの地下会場では、もう、ウェルカムパーティが始まっていた。そうだ、腹ごしらえをしないと。頭の中が妄想で一杯の私は、空腹であることを忘れていたのだ。まるでスーパーへ持って行く買い物袋のような今年のSIUバッグを貰い、落胆を隠せない顔で、一旦ホテルに戻った。家内を連れて、再度ウェルカムパーティ会場へ。だれか、知ってる人いないかな……。日本語はわずかながら聞こえるものの、見知った顔は誰1人いなかった。たらふく食べて、飲んで、足下が怪しくなったので、明日の朝食と飲み物を近くのスーパーで仕入れてホテルに戻った。辺りが暗くなったので、例のお店には怪しいネオンがキラキラ灯り、その前を2軒通ってホテルへ。さあ、シャワーを浴びて、いざ出陣。と、どっと疲れが出て、睡魔があざ笑うかのように襲ってきた。明日は、メテオラ。朝は早い。今日の所は、おとなしくしておくか………。隣には、いつでも行けるから。いつの間にか、意識も飛んでいた。


 けたたましいアラームの音に目を覚ますと、6時だった。まだ暗い。昨日荷ほどきをしたスーツケースの中身が、雑然と散らかっていた。整理をせずに眠ってしまったのだ。6時半には、タクシーを頼みにフロントまで行かないと。メテオラの山の上は暑いのか、寒いのか。今はまだ寒い。オールマイティ的な選択で服装に決着を付け、さあ出発だ。アテネ中央駅(ラリッサ駅)の外観は、これが首都最大の駅なのかと思われるほど小さく、本邦のJRで言えば、地方中都市レベル程の印象だった。路線案内図やホームの案内は貧弱で、改札口でのチェック機構もなく、駅員も立っていなかった。私の乗る列車は、7時20分発カランバカ行き。「カランバカ」って、無い?「 Kalabaka」、「Kalampaka」ならあるのだが。「Kalambaka 」も「 Kalabaka」も「Kalampaka」も、みな「Καλαμπακα」なのだと気づいて路線は確認したが、どのホームへ行けばいいのか。改札口付近でウロウロしていると、親切な駅員風の老人がホームの場所を教えてくれた。朝7時のアテネ駅ホームはまだ薄暗く、人影もまばらだったが、次第に各国の観光客風の人々が集まってくる。アジア人も多く、SIU提供の大きなバッグをあから さまにぶら下げている人も多かった。学会場は人気がないのか。向こう側のホームに列車がスーッと入ってきた。と、なんじゃこれは!列車の側面が大きな落書きだらけなのだ。カラフルなのだが、何か汚らしい。今度は、反対側から列車が入ってきた。なんと、これまた同様の落書きだらけなのだ。ギリシアでは、落書きされたらそのままにして塗り替えないのだろうか。しかしよく見ると、その絵はしっかりとした塗装で描かれているのだ。これは、落書きではなく、正式なデザインだったのである。私たちのホームも次第に人が集まってきて、ここだけラッシュアワーの様相だ。日本語で会話する人もあちこちに見受けられる。韓国人、中国人も多い。皆メテオラにいくのかな。鹿児島大学のN先生は、韓国人のドクターらしき人と話をしていた。我々の列車がやってきた。ご多分に漏れず、笑劇的な「落書き列車」であった。指定の席に乗り込み列車が動き出すと、空が白み始め、列車は朝靄の草原を這うように西へ向かった。これから4時間の長旅である。朝日が地平線の雲をオレンジ色に染めながら登ってきた。ギリシア平原の夜明けだ。上空には、いつの間にか青空が広がっていた。昨日スーパーで買ったパンとミカンで朝食を済ませると、すーっと眠りに落ちていった。


 ふと気がつくと、車両の先の方から小さな子供の影がゆっくりと近づいてきた。右に向かって手を出して、左に向かって手を出して、乗客から何か貰おうとしているのだ。「物乞い」か!ギリシアには、まだこういう人たちもいたのだ。ほとんどの乗客は、子供を無視していたが、ギリシア人と思われる乗客のひとりが、何かお説教でもしているかのような話をしていた。子供が私の横に立った。私も無視を決め込んだが、子供が向かい側の老人に手を出した瞬間、パシーンと、その手は老人の手ではねのけられたのだ。私は、一瞬ビクッと目を見開いたが、子供は、泣きもわめきもせず、車両の後方へ同じ行為を繰り返しながら歩き去って行った。

 車掌が、何か専用読取器の様なもので、乗客から差し出す紙を右へ左へチェックしながらやってきた。ほとんどの乗客が、コピー用紙の様なものを見せていた。小さな切符のようなものを見せている乗客は誰もいなかった。我々も、旅行会社から送られてきた、チケット番号と列車の行き先や発着時刻の書かれた、ちょっとした日程表の一部のような紙を渡した。車掌はこれを手に取ると、下の方の大きな黒い四角を「ピッ」。QRコードだったのだ。普段目にするQRコードより5〜6倍大きな黒い四角であり、何の説明も書いてなかったので、何かの模様なのだろうと思っていたが、これが重要な電子チケットだったのだ。すこし邪魔そうな模様だったが、切り取らずにおいて良かった。

 停車場に列車が止まった。THIVAだ。テーベ、テーバイとも言う。ここは、マザコンの元祖語源にもなった、オイディプスコンプレックス(エディプスコンプレックス)のオイディプス悲劇の舞台となった所である。謎々を解いてスフィンクスを退治し、父を父と知らず撲殺し、母を母と知らず交わって子供を作り、我が目を刺して盲目となり、自らをテーバイから追放して放浪したオイディプス王の物語の舞台がまさにここなのだと思うと、神話・戯曲とはいいながら、何か歴史の中に実在した出来事のように感じられ、まさにその舞台の上に自分が立っているような錯覚を覚えた。このあと、いくつかの駅に止まってカランバカに到着したのは11時半だった。ほぼ予定時刻通りに着いたのだが、途中の駅舎のいくつかには、例の「落書き」様の塗装がなされ、よく見ると、本物の「落書き」も多く見かけられた。これが、ヘレニズム文化の国ギリシアの最先端の前衛的芸術なのだろうか。

 「空中に浮かぶ」という語源をもつ雲上の仙境メテオラは、石灰岩の風化によって形成された巨大奇岩群地帯である。高いものでは400mを超す岩の塔が多数立ち並び、大きなものでは頂上に平面を形成している。カランバカ駅から見上げると、遙か絶壁の上に、青空をバックにした小さな修道院を見ることができた。駅には、予約しておいたタクシーが来ているはずだ。「FUKABORI」と書いてある大きなボードを掲げた大柄な男を見つけた。ボードには、「I○○○K○○○」とも書いてあった。なんだ、相乗りか!KセンターのI先生とM病院のY先生(ともにO大学出身)とご一緒になり、家内が前座席で、男3人後部座席のギュウギュウ詰めの旅が始まった。タクシーの運転手は陽気に言った。「今週と来週は毎日日本人のお客でいっぱいなんだ。」「私のお客は、日本人が多いんだよ。」「メテオラは初めてかね。」「ここは、大昔湖で、土地が隆起した後、川で掘られてできたんだ。」「007ユア・アイズ・オンリーの撮影の時、ロジャー・ムーアが来て断崖で宙づりロケを行った事でも有名なんだよ。」メテオラでは、9世紀頃から奇岩側面の洞穴にギリシア正教会の修道士が住み着き始め、14世紀頃に戦火を逃れた同修道士達が、大メテオロン修道院を建設し、これを手始めとして多くの修道院が巨岩上に建設されたらしい。人里から隔絶し、俗世との関わりを断って神への深く一心な祈りを続ける修行生活には、このような荘厳な場所がふさわしいのかもしれない。現在は6つの修道院が活動中とのことである。

 タクシーは岩山を一回りして後方から平面石の頂上へ。メテオラ修道院巡りが始まった。どの修道院も拝観料が必要だ。まずは、聖ステファノス修道院。ここは、12世紀頃から聖職者が住み着き始め、14世紀頃に建設された聖堂にいくつもの礼拝堂・食堂等が追加合体して建設されたものだ。ここだけが、唯一、断崖の階段を登らずに道路からそのまま入れる修道院である。中は薄暗いが、見事な壁画や緻密な彫刻物が設置され、金色に輝く金細工のような宙吊りの装飾が設置されていた。修道院といっても観光地化され、観光時間帯の為なのか、黒衣は着ているが修道女で信仰修行をしている人はおらず、案内係や説明係、土産物売り場係などとして働いていた。説明係は英語だけでなく、ドイツ語・フランス語・スペイン語なども堪能のようであった。観光地化しているとはいえ、ここは荘厳な聖地であることには間違いないらしく、帽子をかぶったまま入室した家内は、修道女から家の中では帽子を取るよう促されていた。修道院のテラスからは、カランバカの町を遠方の山から足下まで箱庭のように一望することができた。

 次は、アギア・トリアダ修道院。ここからが大変だ。道路から谷へ一旦降りて、絶壁の石段を上まで登らなくてはならない。タクシー運転手が言った。「この断崖が1981年の007のロケで使われた壁だよ。」ここは、絶壁の下まで道路から降りていく距離も長い。次に垂直絶壁石段をひたすら上へ上へ。頂上に着いたときには、ベストを脱いで、シャツのボタンも外していた。アギア・トリアダとは三位一体という意味で、三位一体(至聖三者)に捧げられた修道院とのこと。ここへの石段は、当初ちょっとした形だけの貧弱なもので、主な往来は、人も物も網袋を用いた人力エレベーターを使っていたようだ。修道院の一室には、エレベーターロープの巻き取り装置が設置されていた。奥庭の平面石の上に立つと、間近に広がるカランバカの町並みとこれに隣接して垂直にそびえ立つメテオラ奇岩塔群の風景が、その荘厳さを伴って私を圧倒した。だれもがこれを見て祈らざるを得ないと思うのか、町を見下ろす平面石の端には、人間サイズの白い十字架が立っていた。

 タクシーは、一路、メテオラ最大のメガロ・メテオロン修道院へ。途中で、ルサノー修道院が見下ろせ、メテオラ奇岩群の全景が見渡せるビューポイントへ立ち寄った。ここで、写真撮影をするのだという。気さくにも、運転手は私のスマホを手に取ると、慣れた手つきで、カメラマンよろしく被写体に指図しながら 通常の写真を数枚、パノラマ写真を1枚撮ってくれた。確かにここは、すごい大パノラマであり、後日VRビューアーを覗くと、メテオラの森から垂直にそびえ立つ巨岩塔群が、右から左へ360度の大迫力で眼前に迫り、まさに自分がまたそこにいるような感覚に落ちたのである。

 と、ここで、この景色、私は見たことがある……………?どこかの映画の1シーン?悪者の隠れ家、難攻不落の要塞!人質監禁の場所!そうだ、助けにいかなくては!私の記憶が確かなら、ジェームズ・コバーン、ハングライダーで! まさに、この場所から飛び立ったのだ! 「007」では、この断崖しか写ってないが、ハングライダーのアクション映画では、上から見たルサノー修道院が写っていたはずだ。ネットの動画を探すと、1976年ジェームズ・コバーン主演「Sky Riders」。まさにルサノー修道院の上空・周囲を飛び交う多数のハングライダーと、修道院側面の大爆発、修道院内外での銃撃戦の大立ち回りが写っていたのだった。当時は、ここでそんなロケができたのだ。メテオラは、1988年より世界文化遺産となっている。

 メガロ・メテオロン修道院は、メテオラ最大の巨岩上にあり、たくさんの建物が接合した巨大修道院で、それぞれの建物が礼拝堂のほか、食堂、食糧貯蔵室、木工製作工房、病院、療養所など機能を分担させた形で、上下左右迷路のように複雑に入り組んで接合していた。隣接対面する岩山からの眺めは、一見巨大要塞のようだ。ここでは、女性はロングスカート以外の服装は禁止で、ミニスカートやジーンズ・パンツの人には一時的に修道院のロングスカートが貸与される。壁画や陳列物、土産物も豊富で、かつての食堂は博物館として公開されている。家内の叔母もカランバカに宿を取りながら、数日間ここへ祈りに訪れていたらしい。内部を一通り見学し、断崖石段を下って駐車場まで登ると、どっと疲れが吹き出した。丁度止まっていたキッチンカーで軽食を求め、一休みすることにした。私が買ったのは、スカナコピタ。ほうれん草のパイだ。この店のスカナコピタは、パイというより、大きな「じり焼きのほうれん草はさみ」のようなもので、半分で飽きが来てしまった。

 最後に向かったのは、ルサノー修道院。例の映画のロケ地である。ヴァルラーム修道院とアギオス・ニコラオス修道院は金曜定休日なので、ここが最後。絶壁を登ったり下ったり、もう大変なのでこのくらいで丁度いい。ここは比較的小さな修道院であるが、細い岩柱塔の頂上に一棟の建物が乗っており、その外壁と断崖が同一面をなしているので、まるで西洋城の高塔を彷彿させる。メテオラの森と林立する巨岩塔群に囲まれ、赤茶色の平屋根と薄茶色の外壁をもったこの古めかしい高塔は、まさにメテオラ一番の絵になる風景かもしれない。この修道院は狭く、あとからあとから入ってくる人波に押されて、内部をじっくり見ていられない程だ。私自身も疲れ果て、見学は、もうどうでもいいという状態で、サッと一通り目を通すと道路へ向かった。途中の岩の上には、太った大きな猫が気持ちよさそうに丸くなっていた。そこかしこの、メテオラの猫。有名らしい。

 開いている修道院は、これでひととおり見て回ることができたので、タクシーはカランバカ駅に向かった。運転手は、「発車の時刻までは時間があるだろうから、お土産屋さんの多い通りで降ろしてあげるよ。ムサカは食べたかね。ギリシアの伝統料理店もいくつかあるよ。駅はそこをまっすぐ行って、右へ曲がって少し行ったところだ。」と、駅にほど近いカランバカの町中で降ろしてくれた。ここの土産は、写真や絵は勿論だが、サンダルと工芸的な紐製のブレスレットが多い。ギリシアではおなじみの海綿も置いてあった。いくつかの土産物店を冷やかしで回って、腹も空いてきたので、伝統的ギリシアレストランに向かった。店の前まで来ると、「こんにちは!」。テラス席の中から店員が、日本語で、にこやかに声をかけた。え!なんで?何で我々が日本人だと分かるのだろうか!韓国人や中国人もたくさんいるのに!日本語を話したのにも驚いたが、私の外観は、何か日本人特有の形状を有しているのであろうか。我々が目を丸くして立ち止まると、店員は「どうぞ!おいしいよ!」と畳み掛けた。我々は、感激して、ここでムサカとギリシアサラダを食べることにした。テラス席に腰を下ろすと、そのいくつかでは観光客が食事をしていたが、奥の方で、小さな子供が何やら客と話をしているようだった。よく見ると、ゾッと体が凍りついた。メテオラ行きの列車に乗っていた少年とよく似た少年だったのだ。物乞いだ。あっちのテーブルに行って手を出して、こっちのテーブルに行って手を出して。私は、また無視することにした。通りの向こうのレストランでは、小さな郷土楽団らしい人たちが、音楽を演奏し始めた。ドンチャカチャッチャ、ドンチャカチャッチャ。すると、そこで食事をしていた人たちが踊り出したのだ。年配の人たちが多かったが、男も女も輪になってぐるぐる回り出した。ギリシアの田舎は、なんと陽気で呑気なところなのだろうか。ムサカとギリシアサラダが運ばれてきた。ムサカはジャガイモ・茄子・ミートソースのミルフィーユにチーズ風玉子焼きを乗せた層状の食べ物で、何度か食べたことがあるが、結構うまい。しかしだ、このサラダには、葉っぱが入ってない!それに、巨大な洗濯石鹸か明日香石舞台の天井石の如くサラダの上に乗ったフェタチーズの塊。チーズの粉砕の程度は、お好きな様にということなのか、好きな人はこのままかぶりつけということなのか、私好みまでのチーズの粉砕には、結構な時間を浪費してしまった。

 メテオラからの帰りの列車は、また例の落書き列車。17時過ぎの列車に乗ると、あたりは次第に夕闇に包まれ、心地よい疲労感とともに睡魔が意識を持ち去っていった。ふと気がつくと21時。3時間以上眠っていたのだ。列車は漆黒の闇をひたすら走り続け、周囲には次第に建物が多くなってきた。アテネ駅に着くと、駅前には帰宅客を狙ったタクシーが溢れていたが、悪質運転手も多く、運転手にどやされながらもここは落ち着いて、まともな運賃のタクシーを探し出し、なんとか我が宿までたどり着いた。シャワーを浴びて、夕食代わりに今日の残り物の食物を胃袋に入れたかと思うと、巨大な疲労感が私を押し潰し、あっという間に深い眠りに落ちていった。S劇場は……など考える暇もなく。


 10月19日の朝はすがすがしく明けた。十分な睡眠が取れたせいか、気分はいいのだが、疲労はまだ残り、体も少しこわばっていた。今日はお昼にStathisと会う予定だが、午前中は何の制約もない。ゆっくりホテルの朝食会場に行くと、J大学のE教授が左手を挙げて、にこっと笑った。「深堀先生もここなんですね。」「先生は、毎日司会やら座長やら講演やら講義やらあって大変だね。」と、私が返すと、「本当なんですよね。ホント、みんながうらやましい。」と、E先生。「折角ギリシアまで来たのに。深堀先生は、どこかに行きましたか?」。「昨日メテオラ、今日学会、明日クルーズ。」と、私。「本当に、うらやましい。」と、E先生。「あとでまた、○○のすき焼き屋の会、設定するね。」と言って分かれた。実は、以前から、私の友人が女将を務める○○のすき焼き屋で一緒に食事会をすることになっていたのである。アテナエウム・グランドホテルの朝食のサラダには、わずかながら、葉っぱが入っていた。チーズも細かくなっていた。これなら、普通にすぐ食べられる。朝食を済ませると、S劇場の前を通って学会場へ向かった。私のポスター発表会場は、インターコンチネンタルホテル地下一階の片隅にあった。本当に片隅なので、係の人に聞かなければ分からない程だ。40インチ程の液晶画面が6台あり、画面の一部に当該ポスターの番号や発表者などを入力すると、画面一杯にポスターが現れる仕組みだ。ポスター発表の人たちは、思い思いの場所で自分のポスターをバックに出しながら、記念撮影をしていた。プレナリー会場へ足を運んだ。が、なんとガラガラなのだ。お目当ての講演が終わった後、展示会場にも行ってみたが、狭い割にここもガラガラで、企業の説明係の人たちの多くが暇そうにしていた。みんなどこに行っちゃたのかな。では、私も今日は、パルテノン神殿のあるアクロポリスの丘に行くことにしよう。ギリシアに来たなら、絶対必須の場所である。学会場では、今回のSIUのスマートホンアプリを勧めていたので、一応入れておくことにした。

 ホテルへ戻ると、家内が部屋の入り口ドアと戦っていた。ドアが閉まらないのだ。私が出て行ってから、ずっと奮闘していたらしい。フロント係を呼んできて説明すると、平然と大丈夫だと言うのだ。彼は、ドアノブを持つとビューンと引っ張り、ドカーンとドアを閉めた。ドアが閉まった。このようにやれと。立て付けが傾いてきたようだ。そういえば、この部屋の床も傾斜していた。。

 ホテルを出て、路面電車の停車場に向かった。路面電車と地下鉄を乗り継いで行くと、歩く距離が少なくなることが分かったからだ。アテネの路面電車には乗ったことがなかったので、おもしろい体験にもなると思ったのだ。停車場に着いた。しかし、なんと路面電車は、ここが郊外への出発地点で、市街地には行かないようになっていたのだ。線路自体は市街地にも通っているのだが。私たちは愕然として、そこから線路づたいに乗り換え予定だった地下鉄駅の方向へ歩いた。地下鉄駅は、以前来た時と変わって、改札口では読取装置で乗車券をチェックするようになっていた。以前来た時は読取装置が無く、フリーパスだったのである。地下鉄ではアクロポリス駅は一駅の距離で、車内は混んでいたがすぐ着くことができた。ドッと半数以上の乗客が降り、階段を登ると、ここが新アクロポリス博物館の玄関前だった。この通りは土産物屋が多く、観光客で溢れていた。北へ50m程歩くと、長い行列が目についた。アクロポリスの入場券売り場に並ぶ列だ。我々もこの行列に並んだ。前の方には、K大学のO教授の姿も見えた。しかしである。しばらくたっても、この行列が一向に動かないのだ。どうなっているのかと先頭まで行ってみると、窓口が1つしかない。しかも、そこで販売員と観光客がゴチャゴチャずっと話をしているのである。何のことか、しばらく様子をみていると、どうやらインターネット予約客が予約確認をできず、トラブっているようだった。現金払いの人は、スムーズに通過できるが、インターネット予約のまとめ買いの人には、それぞれの本人確認をしているようで、これがなかなか進まない理由らしい。また、カード払いの人も、通信が悪いのか、何度もやり直す事が多く埒があかない。30分間並んで数メートル、1時間たって10数メートル。スマートホンが鳴った。何かと思うと、SIUのアプリが、プレナリーでは今、これこれをやっているので聞きに来いというのだ。学会自体は、やはり人気がないのか。2時間程並んで入場券を買えた頃には、12時を回っていた。12時半には、Stathisとの待ち合わせがある。30分では、アクロポリスはとても回りきれない。我々は、入場を諦めて待ち合わせ場所へ行くことにした。

 新アクロポリス博物館の入り口に着くやいなや、顎からもみ上げまで白髭でうまった太った男がニコニコしながら近づいてきた。見覚えのある顔だ。“Hi, Tatsu! Long time no see! How are you doing?” 聞き覚えのある声。Stathisだ。

 彼は、ドーンとぶつかってギュッと私をハグすると、肩をポンポンと叩いた。米国留学中、私のニックネームは「タツ」だったのである。考古学者である彼の奥様も一緒に来た。我々は2度目の再会を喜び合った。Stathisは私の家内の名前も覚えていた。お昼をご馳走すると言われ、新アクロポリス博物館へ向かったが、博物館までのアプローチは、ガラスの床から下の発掘遺跡が見える仕組みになっているところもあった。3階のレストランは観光の穴場ともいわれている所だが、居ながらにしてパルテノン神殿を眺望することができた。

 昔の話を語らい合いながら、彼らへのお土産の説明をしていると、Stathisはおもむろに厚めのファイルを取り出した。彼の、環境汚染物が生殖細胞に与える影響の研究成果だとのこと。私にプレゼントしてくれるとのことだった。ゆっくり食事をとったあと、Mrs. Nikolaropoulosが、得意の博物館展示物の説明をしてくれることになった。ここからが大変だった。展示物の説明をしっかり予習してきたらしく、びっしり記載された分厚いレポート用紙を出しながら、説明は、一階まで降りてそこからスタートしないといけないというのだ。歴史の流れを過去から順々に説明していかないと、十分理解できないというのである。我々は、3階から1階へ降りて彼女の話を聞くことになった。一階は受付と土産物店がメインで遺跡展示物は少なく、スタートは一階から二階に続く長くて広いスロープなのだが、この両側に遺跡展示物がポツポツと陳列されていた。彼女はこの一つ一つについて、何世紀の物で、いつどこで発掘され、ギリシア神話の何に関連し、何を意味するのかを滔々と話し始めた。私がちょっと勉強してきたギリシア神話の話を持ち出し、話の腰を折りながら相槌をつくものだから、さらに得意げに長々と説明を続けた。ということで、なかなか2階にたどり着けないのである。私としては、全く何も知らないわけではなく、少しはギリシアについて知っているんだということをアピールしたかっただけなのだが、これが彼女の説明意欲に灯を付けてしまった。私としては、最近体力低下のためか、じっと立っているのがつらい状態で、もう十分アクロポリス入場券売り場の前で立っており、かなり体にきていて辛くなってきているのだが、坂の途中で一向に動かないのだ。いつになったら二階までたどり着けるのか。Stathisが助け船を出した。「早く二階に行こうよ。」彼女は、ハッと我に返ったようで、そこからは、まずまずのスピードで二階に向かった。

 二階は古代ギリシアの彫刻物やパルテノン神殿の部品の一部などが歴史を追いながら、ぐるっと一回り陳列してあるのだが、何しろ数が多い。これを作製年代とギリシア神話に関連づけて説明するものだから、やっぱりなかなか先へ進まない。だんだん、もう勘弁して貰いたいなと思った頃、またStathisが助け船を出してくれた。「タツ、すこしここへ座ったら?」。私が青くなっていたのか、Stathisは、やっぱりいいやつだ。私は座って話を聞くことにした。このように、4階までひととおり話を聞き終わった頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。パルテノン神殿はライトアップされ、明るく輝いていた。我々には、やることがあった。アクロポリスに行かなくては。家内は、日本の観光案内書により、アクロポリスが夕方からも見学できると思っていたので、暗くなっても大丈夫と高をくくっていたのである。このことをStathis夫妻に告げると、彼らは、私たちがすでにアクロポリスには行ってきたと思っていたとのことだった。博物館の前で、彼らに出会った時、アクロポリスには行けなかったと話をしたはずだったのだが。それで、こんなに長々と説明をしたのか。彼らは、アクロポリスは夜には閉まってしまうかもしれないと言い、早く行った方がいいと言ってくれた。我々は、早々に彼らに別れを告げ、アクロポリスに向かった。ゆっくり歩いても5分程度なので、駆け足で急ぐとすぐアクロポリスの入り口に着いた。しかし、である。不運にも、30分ほど前に、アクロポリスは閉まっていたのである。Stathisに電話すると、彼らはまだ博物館にいて、私に渡す物があるという。博物館に戻ると、彼らは博物館の土産物屋で買い物をしていたらしく、我々は、数点のギリシア土産とギリシアの本をいただいた。アテネで二度もStathisに会えた奇跡をギリシアの神々に感謝し、もう二度と会うことはないであろう別れを彼らに告げた後、煌々と輝くパルテノン神殿を見上げながら帰宅の途についた。

 アクロポリスには、帰りの日の朝に家内を連れて行くことにしよう。地下鉄に一駅区間乗って、大通りをホテルまで約900mばかりブラブラ歩いたが、明日はエーゲ海クルーズ。朝早いから、外食せず、総菜屋で夕食を仕入れることにした。私としては、一番辛い「立ち番」を何時間も続けたので、もうヘロヘロであり、すぐにでも横になりたい状態だったのである。一軒のS劇場の前を通ってホテルへ戻ったが、このS劇場のすこし輝きだした欲望のネオンでさえ、この時はもうどうでもよかった。部屋にたどり着くと、伐採大木が倒れるが如くベッドに倒れ込んだ。


 翌日アテネの空は薄曇りであった。折角のエーゲ海クルーズの先行きが案じられたが、次第に青空が広がっていった。我々は、ピックアップに来たバスに乗ってアテネの南、ピレウスの港に向かった。このツアーは、SIUの学会企画のもので、私がSIUのホームページから申し込んだものだ。港に着くと、それほど大きくない3階建てのクルーズ船が待っていた。船内に入ると指示があり、日本人は日本語の案内係がいるのでそちらのグループに行けと言うのである。SIUが募集したツアーだったので、SIUメンバーと家族のツアーだとばかり思っていたのだが、SIUは当地の旅行会社に丸投げし、そこでは我々を一般ツアー客と混ぜて現地クルーズに参加させる仕組みになっていたのだ。そして、このクルーズにはギリシアに永住した日本人女性のクルーズ専任添乗員がいたので、そのグループに入れられたのである。いくつかの日本人ツアー客グループは各々の添乗員付きで参加しており、ここでは添乗員の交代となったようだ。我々は、日本人用に用意された一室に通された。あたりを見回すと、日本人のSIU関係者は多くないように見えた。しかしである、なんとメテオラで一緒にタクシーに乗ったI先生・Y先生とまたご一緒になったのである。彼らは、SIUからではなく、日本の旅行会社にエーゲ海クルーズを予約したらしい。I先生曰く、「赤い糸で結ばれているのかも知れませんね。」

 我々のエーゲ海クルーズはミニクルーズで、ギリシア本土とペロポネソス半島で囲まれたサロニコス湾付近のクルーズだ。ピレウスを出発し、イドラ島、ポロス島、エギナ島を回って帰ってくる。これでも、島内観光があるので丸一日はかかる。ピレウス港を出ると、白色レゴブロックがばらまかれたようなアテネの町並みが、靄に包まれながら青いエーゲ海に浮かぶ蜃気楼のように消えていった。

 しばらくすると、島に挟まれた非常に狭い海峡を通るので写真撮影がお勧めだという案内があった。では、屋上に行ってみよう。屋上に登った瞬間、我々は愕然とした。立錐の余地もないのである。晴れ上がった空の下、椅子という椅子、デッキチェアというデッキチェアは全て埋まっており、その間隙も各国の観光客で埋まっていたのである。そうだ、ゆったりとしたエーゲ海クルーズを満喫するには、屋上のデッキチェアを利用するのが一番だったのだ。初めから、そういう情報を持っている人が多かったのかも知れない。何とか島の写真を撮って、すごすごと階下へ戻ると、大阪KGセンターのN先生が、泰然自若として英文論文を読んでいた。こういう過ごし方もあるのだな。ゆったりと時間を過ごすのには、環境に右往左往してはいけないのかも知れない。そうこうしているうちに、我々のクルーズ船は、イドラ島に到着した。ここは、奔放な若い女性の旅を描いたドイツ映画「パトリシアの夏」のロケ地だ。船は映画の情景そのままに港に入った。


 ここの滞在時間は90分。丘に囲まれスリ鉢状になった港の内側面は、かなり高い坂の上までギリシア特有のオレンジ色の屋根と白い壁の家々で覆い尽くされ、これぞギリシアの町並みという風景であった。観光乗馬用ロバを横目にギリシアレストランと土産物屋を覗きながら、細い路地へ入った。と、すぐに上り坂の階段である。白壁に囲まれた白い石段は、右へ左へ曲がりながら丘の上まで続いていた。「ギリシアの島に来たのだなぁ。」そんなため息混じりの言葉が思わず出てしまう、白くて狭い路地階段だった。結構な距離を上って頂上付近に着くと、土に埋まった瓦礫状石段の小山の上にギリシア国旗がはためいていた。ここからの眺望は、息をのむ様な大パノラマであった。ここは、海に突き出た岬の頂上になっており、広く青いエーゲ海の水平線と海上に白い弧を描きながら散在する船舶、眼下に広がるイドラの港、サイコロを撒いた様にスリ鉢状の港町を埋め尽くすツートーンカラーの家々が、360度の視野の下に展望できた。

 そろそろ戻らないと。もう少し土産物店も見たいし。我々は、来た道を戻ろうとしたが、斜面に作られた細い路地は迷路の様になっており、混迷を極めた。あっちの路地を降りて民家の玄関先に着いたり、こっちの路地を降りて庭壁にぶつかったり。しかし、とにかく下へ行けばいいのだ。やっとの事で港の街路へたどり着いたと思ったら、レストランの庭先だった。船へ戻ると昼食の時間だった。ちょっといい席を頼んだので、食事はボーイが持ってきてくれたが、一般の席はバイキングで、そちらの方が料理の種類が豊富のようだった。


 次の島はポロス島だ。ポロス島はペロポネソス半島に非常に接近した位置にあり、島と半島に挟まれた海峡は、広い川のようだ。ポロス島の港は岬の先端付近にあり、開けた印象の港だったが、岬には丘があり、頂上に時計台があってこれを見てくるのがポロス島観光のコースであった。エーゲ海クルーズとは、船に乗って島に寄り、山に登って帰ってくる事を繰り返すものと知るべしか。下船後、イドラ島の時と同様に、港から白壁と白い石段の細い路地を登り、頂上の時計台に着くと、ここにも、ギリシア国旗がはためいていた。ここからの眺めは、青い海が低めの山並みに囲まれ、まるで大きな湖を見ているようだ。サイコロの様なギリシアの家並みは、海岸線付近に散らばり、山並みは、何故か疎に生えている緑の木々に覆われていた。我々は、今度は島内散策を早めに終え、船に早く戻ってデッキのテーブル席を占拠することにした。

 「エーゲ海クルーズ」というのだから、海を見ながらゆったりとした時間を過ごす、という体験をしなければ。運良く我々はテーブル席をゲットでき、船の出航を待った。船が港を出ると、白色レゴブロックの塊のような港町が遠ざかり、次第に青い空と青い水平 線が広がった。

 波もあまりない。水平線の上に乗る平坦な山並みのような島々の遠景と、青い海をバックに点在する白いヨットの帆。海を渡る風。これだ!これだよ。ついに、私は「エーゲ海クルーズ」をしっかり体験した達成感と満足感を手に入れることができたのだった。



 最後の島は、エギナ島だ。エギナ島は、3島の中でも最大でアテネに最も近い。歴史も古く、紀元前5世紀頃にはアテネと覇を争う海上交易の中心地であったらしい。現在は、別荘地として使われ、特産のピスタチオが有名のようだ。ここでは港で日本人ガイド付きのバスに乗り換え、女神アファイア神殿と聖ネクタリオス修道院を回るようになっていた。バスは20分程で女神アファイア神殿に到着した。「アファイア」とは「消える」という意味で、難を逃れたクレタ島の女神がこの地の森で「消えた」ことからつけられた名前らしい。この神殿は小さな丘の上にあり、小型のパルテノン神殿のような形をしていた。ここと、アテネのアクロポリスの丘のパルテノン神殿、スニオン岬のポセイドン神殿を繋げた三角形は、“聖なる三角形”と呼ばれ、月に照らされて白く輝き灯台の役目を果たしていたといわれている。神殿の入り口には売店があり、ここでお土産のピスタチオを買い、ピスタチオアイスクリームを食べる、というのが通常の観光コースのようだ。アイスを食べていると、売店のピスタチオは、あっという間に少なくなってしまったが、日本人ガイドは、次でも買えるから心配ないとのこと。

 次に向かうのは、聖ネクタリオス修道院。20世 紀初頭にギリシア正教会の聖人ネクタリオスによって建てられた修道院であり、建物が新しいのでとても美しく、まさに観光の名所といってもいいだろう。外壁が薄茶色の修道院は、2つの塔と1つのドームを持ち、いずれも茶色のベレー帽状の屋根が載っていた。修道院の内部は、意外に明るく、たくさんの壁画と緻密な装飾が施された彫刻物で覆われていた。修道院の庭にはピスタチオ屋の車が止まっており、ここではあまり塩分の多くなく、神殿前の売店より安いピスタチオを大量に買うことができたのである。しかし、これがウマクなかった。後で分かったのだが、このピスタチオは品質が不均一だったのだ。かつ、ペンチがないと殻があけられない物も多く、何かいっぱい食わされた感があった。

 船へ戻ると夕暮れが近づいてきた。太陽が、水平線上の夕靄を薄紫に染めながら降りてきていた。オレンジ色に輝く太陽と、これを反射して輝く海と波。あたりには、港へ帰るクルーズ船が二隻三隻。ふっと、この景色どこかで見たことがある、という想いが脳裏をかすめた。そうだ、金曜ロードショーのオープニングとウリ二つではないか。トランペットの音が聞こえる様な気がして、いつのまにかオープニングテーマFriday Night Fantasyのメロディーを口ずさんでいた。船上のデッキはカメラを持った観光客で混雑していった。

 日が沈むと、カモメの大群が船を追いかけてきた。宵闇が迫り、船内では民族舞踊のショーが始まった。民族楽器を持った楽団が、伝統音楽を奏で、民族衣装を着た踊り子たちが踊り出した。踊りが最高潮に達すると、踊り子たちは、手をつないで細長い輪を作って回り出した。この情景、この音楽、どこかで見た様な聞いた様な.............。あ、メテオラのレストランの前で見たやつだ。その時、数人の踊り子たちが手を離して観客席に向かった。観客を連れ出して、一緒に踊らせようとしたのである。多くの観客は抵抗したが、数人の観客がいやいやながら連れ出された。1人の男性は、喜んで輪の中に飛び込んでいった。ギリシア人なのであろうか。手をつないだ観客と踊り子達の輪は、大きく開いて一列になり、船内の観客を取り囲んだ。 音楽が一段と大きく鳴り響き、踊り子の動きが激しくなった。フィナーレの様だ。大歓声と拍手につつまれ民俗舞踊ショーは終わった。デッキへ出てみると、暗闇の中にピレウスの町の灯が宝石を撒いた様に煌めいて、エーゲ海クルーズの終わりを告げていた。

 これでこの日が終わってはいけないのだが、実際終わってしまったようだ。家内の記憶によると、この日は、坂を登って下りて、それを繰り返して、疲れ果てていたので、総菜屋に寄って、ちょっとした食べ物とビールを買ってきて、ビールを全部飲みきらないうちに倒れて眠ってしまったようなのだ。寄る年波には勝てない。普段、大きな手術があると、次の日にはダウンしてしまう様な私の体にとっては、この日の行程はかなりきつかったのかも知れない。私の楽しみにしていたS劇場はどうしてしまったのだろう。後日談、J医科大学のE先生の話では、若い衆が探検しに行ったものの、先立つものがなく相手にしてもらえなかったとのことだ。私は、………………….。渡航前からの欲望は木っ葉微塵に打ち砕かれてしまった。気がついた時には、取り返しがつかない日になってしまっていた。人生、こんなものだ。S劇場は遠かった。


 翌日、私はすがすがしく目覚めることができた。かなり眠ることができたのだろう。遂に、帰国の日になってしまったが、アテネ最大の目玉、アクロポリスにはまだ行っていない。家内をパルテノン神殿に連れて行かなくては。アテネ空港には、午後2時頃までに行けばいいので、まだ時間はある。早々に帰国の身支度を整え、荷物をフロントに預けてアクロポリスに向かった。一昨日と同じ道なので慣れたものだ。しばらく歩いて地下鉄に乗り、一駅進んで地下鉄から出た所が博物館の入り口。そこから100m程でアクロポリスの入り口だ。驚いたことに、朝8時頃のアクロポリスは、先日10時頃の喧噪が嘘の様にガラガラで、全 く並ばずに入場できた。先日購入した入場券が未使用だったのにもかかわらず、使用日が指定されているということで無効となり、また入場券を買うことになったのだが。世界遺産アクロポリスは「高い丘の上の都市」と言う意味で、断崖絶壁で囲まれた岩山の上が平地になっており、ここにパルテノン神殿があるのだ。スロープを進んでいくと、まず現れるのがディオニューソス劇場だ。半円形の大きなすり鉢状の階段席は、15000人程の収容能を持つといわれ紀元前4世紀に建設されたとのことだが、まずまずの状態で石造階段席が保存されているのは下半分くらいで あり、上方は風化して瓦礫の砂地になっていた。

 ここから西に登っていくと、ヘロディス・アッティコス音楽堂を下方に望む所まで到達する。この音楽堂も半円形で、急峻なすり鉢状の石造階段席がしっかり上方まで建造されており、収容人員は約5000名という。初期の建造は紀元2世紀だが、3世紀にゲルマン放浪部族の一派に破壊され、現存のものは1950年頃改修されたものらしい。現在でもコンサート会場等に使われているとのことだ。

 ここを北に回り込むと、「門」あるいは「門の前」を意味するプロピュライアの下に出る。プロピュライアは、一見パルテノン神殿 の正面かと思わせる形をした巨大な門で、石段を左右と正面から取り囲むような大きな建物だ。屋根岩石が10数本の神殿と同じ巨大な柱で支えられている。大理石の階段を登り、この門をくぐり抜けると、パルテノン神殿だ。

 パルテノン神殿は紀元前5世紀に作られたアテネの守護神アテナを祀る神殿であり、古代ギリシア美術の傑作といわれている。オスマン帝国の支配下で火薬庫として使われていた神殿は、17世紀にヴェネチア共和国の攻撃を受けて爆発炎上し、建物や装飾品彫刻等が 破損したが、その一部は英国伯爵により大英博物館へ持ち去れた。英国は今でも返却を拒んでいるという。アクロポリスの丘の上は平坦ではあるが、凹凸のある岩肌が露出し、大小の岩石や神殿の一部かとも思われる瓦礫が散在し、結構歩きにくい。2006年に来た時にもパルテノン神殿は修復工事をしていたが、13年たった今回でもまだ工 事中であった。朝日を浴びたパルテノン神殿は、青空をバックに薄茶色に輝き、2500年の時を超え焼け焦げた肌をあらわにした巨大な柱は、見上げる者を圧倒的な荘厳さで威圧していた。

 パルテノン神殿の隣には神話上のアテネの王エリクトニオスを祀ったエレクティオン神殿がある。ここも紀元前5世紀の建造とされる建物であるが、エ リクトニオス以外にも多くの神々を祀ってある。有名なのはアテナとポセイドンで、両者がこの地の守護神の座を争った場所とされる。ポセイドンはトライデント(三叉の矛)で岩を突き、塩水を噴出させたが、アテナはオリーブを植えたという。住民は、乾燥地帯でもその実が得られ、食用や薬にもなるオリーブを支持し、アテナがこの地の守護神となった。

 エレクティオン神殿の傍らには、2500年以上の時を超えた(?)オリーブの木が今も生えている。デザインとして有名なのは6人の美しく彫刻された乙女像が柱になっている柱廊の張り出しで、一対のオリジナルは大英博物館にあるらしい。

 アクロポリスはアテネ市街地の中央にある小高い岩山なので、 ここからの眺望はすばらしく、神殿を回りながらあたりを見回すと、アテネ市街地を一望できるだけでなく、ゼウス神殿やヘーパイストス神殿などの遺 跡をあちこちに見ることができる。北東には市街地の最高峰リカヴィトスの丘を望み、南にはピレウス港やエーゲ海を望むことができた。


 アクロポリスは、午前10時頃になると、ガラッと人間の密度が変わる。我々がアクロポリスを降りようとした時には、人の波が軍隊蟻の行進の如く上へ上へと押し寄せてきた。アクロポリスの入場ゲート周辺は、先日と同様の光景で、長い観光客の行列ができていた。ここは、朝早く来なければいけない場所なんだ。アクロポリスを出た正面がゼウス神殿で、少し歩けばその北にアテネのヘソと呼ばれるシンタグマ広場があるのだが、今回はもう時間がないので、アクロポリス周辺で土産を買って帰ることにした。


 ホテルへ戻ってタクシーを呼ぶと、タクシーは、来た時と反対の南回りの経路でアテネ空港へ連れて行ってくれた。こちらの方がやや遠回りになるが、途中エーゲ海を見ることができるのだ。運転手は海岸で我々を降ろし、海を見てくる様勧めたので、先日のエーゲ海クルーズに思いをはせながら真昼の太陽に輝くエーゲ海を見納めすることができた。空港で名残のギリシア風昼食をとり、一路アブダビへ。しかし、そこでまた一波乱があった。アブダビ空港の長時間待ちの荷物検査を終え、出発時間ぎりぎりで出発ゲートに向かうと、なんと我々の飛行機の予定が掲示されていないのだ。もう出発してしまったのか。はたと困って係の人に聞くと、成田周辺が豪雨になっており、出発時刻が5時間遅れになったというのだ。出発ゲートも変更されていた。我々は、アテネへ行きで9時間待った時と同じ出発ゲートでまた5時間待つことになった。我々は、この出発ゲートの亡霊に取り憑かれてしまったのか、アブダビでは、どうもついていない。暑い外界の寒い待合室で夜中に5時間も待つのはいやなので、土産物屋をぐるぐる回って時間を潰し、出発時刻になったときには、もうヘトヘトになっていた。成田への13時間の旅には、このくらい疲れていた方がぐっすり寝られるのか、帰りの方が短く感じられた。成田に着いたのは18時過ぎ。これから高崎に帰って、栃木へ行って、明日からまた診療があるのに。予定が大分狂ってしまったが、仕方がない。頑張らないと。しかし、日本に無事(?)帰って来られて安心したのか、腹が減った。空港で何か食べないと。私の選択は……………………。お察しの通り!ラーメン!


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